« 囃子、歌い、舞と三位一体となるシテの舞が、観る者を釘付けに | メイン | <区民レポーター>舞台のはかなげな楽しさが、ふっと貴重で切実なものに思える »

笛や太鼓の美しさも相まって、舞台の世界に惹き込まれていく

能楽現在形 劇場版@世田谷 半能『高砂』/能『邯鄲』

鑑賞日:1月17日(日) 14:00~
女性

 私にとっては、人生で二度目の能。分かるのはシテと呼ばれるのが主役でワキは脇役ということだけだった。どうやら前場を大幅に略して祝言性を強調したものが「半能」らしい、というのは案内で知った。これまで色々な演劇を見て来たけれど、こんなに不勉強で良いものかと見る前に後悔するのは能くらいではないか。

 3本の橋掛かりのある能舞台の背景に松の描かれた幕が垂れているだけというミニマムな空間の情報のなさが、余計に不安を誘う。むしろ他の演劇は「空っぽ」の状態で臨みたい方なのに。そんな今更な不安が募って来たかと思うと、幕が明けた。

 以前、別の場所で見たよりも暗めの照明と黒い背景の中で、舞台と演者がぼわっと浮かび上がる。どこかで神と繋がっているような、ある種の宗教的儀式に立ち会っているような感覚。笛や太鼓の美しさも相まって、舞台の上の世界に惹き込まれていく、「幽玄の美」という言葉が浮かぶ。半能「高砂」は特に儀式的要素が強く、能『邯鄲』はより物語的だった。特に「邯鄲」の最後で人生の限界を悟ったような落胆が感じられるシテの寂しげな背中は、それまでの綻びのない様式美とは打って変わって、人間の泥臭さが垣間見えた瞬間だった。

 「能は能か、演劇か」— そんな問いかけに対する答えは、演劇と呼ぶにはあまりに神かがった儀式のように思えた、というのが正直な印象だ。唯一演劇と感じられたのは、「邯鄲」の最後の場面だった。そう思えるかどうかは演目によるところもあれば、自分が「幽玄」に漂う機微の中からどれだけ人間性を見出せるかによるのだろう。最近様式美に目覚めたものとしては、改めて能を見直すきっかけとなりました。ありがとうございました。

About

2010年02月07日 19:14に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「囃子、歌い、舞と三位一体となるシテの舞が、観る者を釘付けに」です。

次の投稿は「<区民レポーター>舞台のはかなげな楽しさが、ふっと貴重で切実なものに思える」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Creative Commons License
このブログは、次のライセンスで保護されています。 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス.
Powered by
Movable Type 3.34