5/7~5/25に上演しました「日本語を読む」では、世田谷区民観劇レポーターを募集いたしました。
第2週に上演した 『朝に死す』のレポートが届きましたので、ご紹介させていただきます!
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D: 『朝に死す』/女性
劇場で戦いをみた。演出家と作者の、俳優と演出家の、そして俳優同士の。
演出家は、終演後のポストトークで語る。作者の清水邦夫が22歳の時(1958年)に書いたこの戯曲は、主人公の男女が誰かに追われている様子なのだが、彼らがどんな素姓の持ち主なのか、なぜ追われているのかまったくわからない。戯曲の完成から上演されるまで21年の歳月が経過しているのは、何かあるに違いない。作者が何かに縛られて上演できなかったのではないか。作者の縛りを解き、役者がルールから逃れられるリーディングという形式で完結させたいと。
演出家は、ト書きが細かく巧妙なこの戯曲を逆手にとった。通常なら感情を込めないはずのト書きの読み手の俳優が徐々に興奮し、最後には2丁のピストルを取り出して、なんと主人公の男と女を撃ってしまうのだ。私が芝居の幕切れにこんなに仰天したことはかつてない。意表をつかれたとはこのことだ。
リーディングだからこそ、演出家はこんな冒険ができるのだろう。大げさに言えば、戯曲を超えたかもしれない。
3台のテーブルしかないシンプルな舞台なのに、芝居が進むにつれて私の想像力はどんどん増して、役者たちと共にヒートアップしていくのがわかる。
芝居は5割が俳優、5割は観客が作るといわれるが、それを実感することができた。
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D: 『太郎の屋根に雪ふりつむ』/女性
私は途中から、椅子にじっと座ってセリフを吐く役者をみているのがすごくもどかしく感じてきて、気が付くと目を閉じて観ていた、目の奥で動き回る役者と、その生き生きとした表情を!
そうだったのかぁ、私にとって「リーディング形式による上演」とは、観客が役者のセリフを感じながら頭の中で上演されるものだったのかぁ…。
観る前には、『日本語を読む』と形容されているので、「言葉」や「声」が主体となるものとばかり思っていた。ところがいざ観てみると、「肉体」や「動き」が「言葉」や「声」を触媒として大きくイメージされるものだった。これは、発見である。
照明は頭の中の映像を壊さないよう、あくまで控えめに、舞台を照らしていた。音響は、貧困なイメージを具体的かつ大きく広げる手助けとなってくれた。役者は 演出は とここで申し上げなくとも、これまでの書きぶりで存分に伝わったことと思う。別役実独特のセリフ回しを堪能しながら-つまり日本語を堪能しながら-想像の世界で遊ぶという贅沢に浸れた土曜の午後であった。
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E: 『不思議の国のアリス』/女性
実際に「不思議の国のアリス」を観劇してまず感じたのは、内容も言葉も劇中で歌われる歌も、ひとつとして古びたものがないということでした。特に、子どものころからよく知っている歌が、新しい印象を伴って劇中で歌われたことがとても新鮮でした。
初演から40年近く経っていて、歌われた歌はそれよりももっと前にできあがっていたものなのに、現在でも舞台で歌われることによって新しい命を吹き込まれる、そのことを強く感じました。そして、舞台の上で語られる言葉が、今でも少しも古びていないばかりか、やはり新鮮に聞こえてくることにも。
現在の日常では絶対に使われることがないだろう日本語が、あの当時は当たり前のように使われていたのだということを再認識しました。
演出された広田淳一さんはこの作品の初演後に生まれた方のようですが、言葉をどのように考えて演出されたのかとても興味があります。
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このほか、第1週目、第3週目にもレポートをいただきました。
あわせてごらんください!
公演情報はこちら。
